【半田 驫】

吹奏学部部長、半田 驫(ひゅう)は、その日校長に呼び出され、
校長室の前に立っていた。
自由な校風で、彼も豊かな長髪を透ける様な金髪にしている。
色白、長身痩躯。彫りの深い顔立ちで、瞳は色素が薄く、
鳶色を通り越して琥珀色をしており、一見外人の様に見える。

「2年A組、半田 驫、入ります。」
「おお。半田君。わざわざ呼び出してすまなかったね。
早速だが、入学式の件で。音楽の光岡先生が入院してしまってね。
そこで、式のBGMの管理を君に・・・・半田君?」

半田の目は、初めて入る校長室の、その校長の席の後ろに掛かる
一枚の油彩に描かれた女性に釘付けになっていた。
金髪の巻き毛で深い緑色の瞳をした、美しい白人の女性だった。
20世紀初頭の絵と思われたが、今見てもモダンな感じのする女性だ。
だがそれ以上に目を引いたのが、この絵が全体にタロットカードの
ような体裁をとっており、しかもそれが死神のカードである点だった。
その女性の背後には不気味な死神が描かれており、その鎌が
今まさに女性の首に架かろうとしている瞬間に見えた。

「あっ。大変失礼致しました。・・・この絵は?」
「ああ。これか。この女性は、ドイツ人で、この高校の母体である
音大の創立に深く係わっている人物とのことだ。この絵は複製で、
本物は、音大の方の学長室に掛かっているんだがね。」
「へぇ。そうだったんですか。でも、なんでこんな構図なのですか?」
「うん。この絵は1910年に描かれているのだが、その翌年にこの女性は
亡くなっているそうだ。自分の死期は悟っていたようだね。」

半田は胸を衝かれた。
「し、しかしそんな状態にある人が、いったいこんな肖像画を
描かせるものなんでしょうか? どんな心境でこんな・・・」
「この人は若い頃恋人を病いで失っているそうだ。恋人は才能のある、
音学生だったらしい。そのせいか、その後彼女は若く才能ある芸術家の
卵たちに援助を惜しまなかったらしい。うちの音大もその一環で。
だから、やっと恋人のもとに行けるという心境だったのかねぇ?
余人の窺い知るところでは無いが。」
「って、この人幾つで亡くなってるんですか?」
「41で亡くなっているから、この時にはもう40になっている筈だね。」
「・・・20代にしか見えませんね。あ。尤も絵だから・・・」
「いや、実際死ぬまで若々しかったらしい。惚れたかね?半田く・・
半田君?!」

半田は奇妙な現実喪失感に見舞われていた。目の前の校長室がぼやけ、
やがて暗転した。・・・・・・・・・

     *    *    *    *    *

背後で男の悲鳴があがった。
振り向くとそこは古いヨーロッパの街並だった。猛烈な勢いで脇を
駆け抜ける馬車を赤毛の男性が飛び退いて避けた瞬間だった。
なぜか、そこが19世紀末のデュッセルドルフであり、飛び退いた男が
自分の親友のペーターであることを彼は知っていた。
馬車が自分の脇を通りすぎようとした瞬間、繊細な外見に似合わぬ
素早さで彼は馬車に飛びついた。

窓から中を覗き込んで、彼は意表をつかれた。
そこには18歳の彼と同年代と思われる金髪巻き毛で深い緑色の瞳をした
華奢ともいえる美しい少女が独りで座っていた。
しかし可憐な外見に似ず、全ての好奇の目を跳ね返す様な強い光を
瞳に宿していた。気位の高い少女と思われた。
つい先程まで、この少女の肖像画か何かを見ていたような気がするのだが、
思い出せなかった。

「随分と無茶な真似をなさるのね。」
意外に低い大人びた声で彼女は言った。
「無茶はそっちだろう! もう少しで俺の友人が引っ掛けられる所だ。」
「十分距離は離れていましたよ。あなたのお友達が大袈裟に飛び退いた
だけです。もう、大人といっていい殿方なのに、臆病な方ですのね。」
その眼差しに見合ったきつい物言いだった。
「・・・・・お前、何様だ?」
「人に訊ねる時はまずご自分が名乗るのが礼儀ではありませんか?」
「・・・・・・!
・・・・・俺はハンス。ハンス・ビュルガー・ホフマイスター。
音楽学校の学生だ。」
「そうですか。私はエリザベート。エリザベート・マイファルトです。」

「・・・・兎に角、馬車を戻せ。そして俺の友人に謝罪してもらおう。」
「先程も申しましたが、距離は十分離れていました。ハンスさん。
その必要は無いと思います。それに、私はとても急いでいます。」
「・・・・・・」
「貴方こそどうするおつもりですか?私は貴方を降ろすために
速度を緩めるつもりはありません。何度も言うように急いで・・」
ハンスは処置なし、といった様子で首を振ると、言い放った。
「結構!この程度のスピード、なんてことはない。」
彼は飛びついたのと同じ身軽さで馬車から飛び下りた。
殆どバランスをくずしもしない。見事な運動神経と言えた。
エリザベートは一瞬思わずみとれてしまった様な表情をしたが、
すぐに少し頬を赤らめたまま、もとの厳しい表情に戻り
前方に視線を移した。

ハンスは、もと来た道を戻る途中でペーターと出合った。
「大丈夫だったか?ペーター。」
「おまえこそ大丈夫か?無茶をする奴だ。どこの馬車だい?ありゃ。」
「エリザベート・マイファルトとかいう女の子が独りで乗ってたぞ。」
「マイファルト家の令嬢か!」
「知ってるのか?」
「ああ。お前はここの土地の人間じゃなかったな。この辺じゃ名家だ。」
「ふ〜ん。どうりでプライドの高そうな・・・」
「・・・だとしたら、お母さんが危ないんじゃないか?」
「え?」
「当主の奥方が病に臥せっていて、もう長くなさそうだという噂は
聞いていた。だから、あんなに急いで・・・」
(ああ。それで。)
ハンスは一瞬少女に同情しかけたが、彼女の言動を思い出し、
その気持ちを振り切ろうと頭をぶるんと振った。

とたんに、凄まじい違和感が彼を襲った。

自分がとうに死んでしまった人間なのだという認識に彼は囚われていた。
同時にあの馬車の少女と自分とに、これから起こる筈の物語が
急流のように彼の頭の中に流れ込んで来た。
それは、短くも激しい恋の物語だった。

『おい。ハンス?・・・どうした?・・・・おい!?』

それは、なぜか未来の物語ではなく、ずっと忘れていた懐かしい
想い出のように感じられた。
(そうだった。エリザベート。俺達の出逢いって・・・最初は・・・
あんなだったんだよな。・・・でも本当は・・・お前は・・・)

     *    *    *    *    *

『・・・田君?・・・・半田君?』
半田は、はっと我に帰った。そこは元の校長室だった。
目の前に、あの馬車の少女の肖像があった。いや・・・・。
あの初めての出逢いから、20数年はたっている筈の時点での肖像画が。
だが・・・絵の中のエリザベートは少しも変ってはいないように思えた。

「大丈夫かね?半田君。急に立ったまま失神したようになって、
驚いたが・・・・」
「あっ。すみません。校長先生。大丈夫です。」

大丈夫なわけはなかった。彼は泣いていた。
悲しみと、懐かしさと、肖像画の女性−エリザベート−に対する
想いとが身内に渦巻いていた。・・・あれが前世の記憶である事を
彼は確信していた。なぜなら彼は今、習ったこともないドイツ語で
思考していたからである。

(エリザベート。あの時は俺には時間が無かった。今は・・・・・
いくらでも時間はある。・・・・なのに。・・・・・今ここに、
・・・おまえは・・・いない!)

 

滞り無く入学式は終わった。

半田は部室棟の吹奏楽部室の前で新入部員受付の席に座っていた。
音大系の高校の吹奏楽部だから入部希望者は殺到しそうなものだが、
皆、部活ぐらいは全く違う事をやりたいと思うのか、例年新入部員
の数はたかが知れている。
(この分では、午後は勧誘に出張ることになるか。)
と、思いつつ、実は半田はそれどころではなかった。
あれ以来湯水の如く曲想が内部から湧き出していた。
半田自身は、編曲は数多く手掛けてはいたが、作曲はしたことが
なかった。
恐くは(多分)自分の前世である、ハンスが形にしたいと思いつつ、
時間が足りず果たし得なかったものたちであろうと思われた。
それらは100年以上たった今でも、全く古びた感じはしなかった。
(本当の意味で夭折だったんだな。彼(ハンス)は。)
と思いを馳せ乍ら、半田は五線紙にペンを走らせていた。
今度、部で演奏してみよう。きっと皆気に入るだろう。

「あのぅ・・・。すみません?」
頭上から、女の子の声が降って来た。
聞いた事のあるような声だと訝しがり乍ら、返事をする。
「ああ。いらっしゃい。入部希望の方?・・・・!?」
声がつまる。顔を上げると、そこには肖像画の女性が・・・・
いや、あの馬車の少女が立っていた。

同一人物であるわけは無い。目の前の子は確かに顔の彫りは深いが、
生粋の日本人のようだったし、当然髪の色も瞳の色も違う。
だが半田にはその子がエリザベートである事が、なぜか瞬時に
はっきりと判った。
少女も半田を見て、かなり驚いた様子だった。
二人は暫く呆然とお互いを見つめ合った。

先に少女の方が我にかえって口を開いた。
幾分幼さの残る可憐な顔立ちには似つかわしくない、
・・・あの懐かしい低いクールな声が流れ出た。
「あっ。はい。そうなんです。」
「ああ。ごめんごめん。この用紙に名前とクラスを書いて
貰えるかな?」
少女は達者な字でそれを書いた。
「・・・難しい名字だね。なんて読むの?」
「御巫(みかなぎ)です。御巫恵利といいます。」
「恵利ちゃんかぁ。これから宜しくね。」
半田はみかけによらず硬派な方で、初対面の女の子を名前で、
しかもちゃんづけで呼ぶ事などまずないのだが、この時は
スラスラと自然に口をついて出た。
「はい。こちらこそ。よろしくお願い致します。」
恵利は初めて笑顔を見せた。笑うとますます雰囲気が似ていた。

半田はかつてないほど満たされた気分になっていた。
恵利の方もそうらしかった。
(そうだな。
今度こそ時間はたっぷりとある。きっとうまくいくさ。)